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大姫 (源頼朝の娘)[おおひめ]
大姫(おおひめ、治承2年(1178年)〔保立道久は真名本『曾我物語』に記載された安元2年(1176年)3月条の件について、通説の「(同月に)頼朝は政子の許に通い始めて姫君(大姫)が生まれた」とする解釈を批判して、「頼朝は政子の許に通い始めて(同月に)姫君(大姫)が生まれた」と解釈すべきとする説を唱え、大姫は安元2年の生まれで源義高が殺害された時には9歳であったとする説を唱えている(保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0)。〕 - 建久8年7月14日(1197年8月28日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で母は北条政子(頼朝の子としては第2子で長女、政子の子としては第1子で長女)。大姫というのは「長女」を意味する通称で、本名は一幡とする説があるが不明。 6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世した。 == 生涯 == 治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃に、夫婦の間の最初の子として誕生。母の政子はその父・時政に結婚を反対され、幽閉されたがそれを振り切り、大雨の夜を凌いで頼朝の元へ走ったという。治承4年(1180年)8月、大姫が数え3歳の時に父・頼朝が挙兵、東国を制圧して鎌倉殿と称されるようになる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大姫 (源頼朝の娘)」の詳細全文を読む
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